まりもの産後うつ闘病記

双極性障害(躁うつ病)を持つママが産後再発→精神科入院→産後うつ状態のプロセスを経て寛解に至るまでを綴ったブログです。

双極性障害発症まで3 会社Aでの生活

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こんばんは。まりもです。

ボヘミアン・ラプソディ』を観て以来、

子供に「ママ〰」と呼ばれると頭のなかでQUEENが流れます(笑)

 

この記事では私が最初に双極性障害を発症するきっかけとなった

会社Aでの生活について書きたいと思います。

 

前回の記事 

双極性障害発症まで2 就活失敗 - 産後メンタルクライシス

で書いたように、私は大変失礼ながら会社Aに

仕方なく入りました。

モチベーションはとても低かったです。

 

会社Aでの生活は私にとってすべてがストレスでした。

私のストレスの原因になったものを書いていきたいと

思います。

 

同期

会社Aは中規模企業で、新入社員の数は数十人。

新入社員が集まった初日、私は愕然としました。

「女性の事務系総合職が私しかいない・・・」

 

女性はいるのですが、一般職の子や技術系の子。

同じ立場の人間がいないというのはとても孤独でした。

会社が、時代に合わせて女性を採用しようという気持ちはわかる。

でも、一人だけはやめてよ・・・と思っていました。

動物の群れのなかに、一匹だけ別の動物が放り込まれたような

気持ちで、いつも孤独感を感じていました。

 

また、事務系の男の子たちは唯一の女子である私を

友好的というよりは、ライバル視するような目で

見てきました。

嫌な言い方に聞こえるかもしれませんが、私の大学からは

この会社に入るような人はいないので珍しく、

周りから期待と好奇の目で見られていたためです。

(あいにくものすごい期待はずれに終わってしまうのですが。)

また、自分にも問題があり、どうせこの会社は

すぐにやめるだろうと思っていたので、私が積極的に

打ち解けようとしないのも悪かったと思います。

 

一般職の女の子達とも全く気が合いませんでした。

彼女達は一度も実家から出たことがない、

郊外の実家から通う取引先のお嬢さん達でした。

学生時代の友人達とは全く違うタイプで

何を話したらいいのかわかりませんでした。

親が作ったお弁当を持って、会社に支給された

制服を着て、ぬくぬくとした実家に帰る子達。

正直羨ましい気持ちもあったと思います。

田舎から出てきて、独り暮らしでカツカツの

生活をしている私とは別の生き物のようでした。

 

 同じ立場で励まし合える仲間がいないということが

一番のストレスでした。

 

仕事内容

直会社Aの仕事内容には特に興味を持てませんでした。

私は英語が比較的得意で、海外に関わる仕事をしたいと

思っていて面接でもその話をしたのですが、

入ってみて、これは海外の仕事が出来るまでに

何十年もかかりそうだな、と感じました。

 

それでも、会社では「やる気のある新入社員」を

演じなければならず、ストレスでした。

おじさん達の機嫌を取るために、

2次会のカラオケでは手に痣が出来るぐらい

タンバリンを叩くなど、変に頑張りすぎているところもありました。

 

また、私は営業職だったのですが、

数字のプレッシャーも辛かったです。

 

都会での生活

都会での生活もまたストレスでした。

学生時代は学校の近くに住んでいたし、

大したストレスもなく楽しく過ごしていましたが、

やはり社会人になると違いました。

満員電車に揺られる毎日の通勤。

ヒールで移動するのは疲れますし、

車に乗ったら乗ったで高速は複雑だし大混雑。

 

また、都会は色々なもので溢れている反面、

何をするにもお金がかかります。

お金がある人には楽しいところかもしれませんが、

正直十数万円の初任給で生活をするのは苦しかったです。

私は今は某地方でのんびりした生活していますが、

もう一度都会で働ける自信は実は今でもありません。

たまに遊びにいくぐらいが、自分にはちょうどいいです。

 

アットホームな社風

「アットホームな社風です」と聞けば聞こえはいいですよね。

しかし、人によって合う合わないがあるんだなと知りました。

会社Aは、人と人のコミュニケーションが濃密でした。

飲み会が好きで週に何回も開かれ、そこで他の社員の

噂話をするという感じでした。

誰かにぽろっと話したことが翌日には会社の

全員が知っている、というような状況。

私は今でこそ会社の仲間とプライベートで遊んだりもしますが、

当時は自分のプライベートの話を他の部署のおじさんが知っている、

なんて状況が嫌で嫌でたまらなく、

自分の話を会社の人にすることはどんどん無くなっていきました。

 

毎日のランチ

楽しみであるはずのお昼ですら毎日苦痛でした。

最初は頑張って早起きをしてお弁当を作り、

気の合わない同期の女の子達と食べていましたが、

お弁当を作るのも彼女達とコミュニケーションをとるのも

次第にしんどくなっていきました。

 

それよりマシかと、男性陣に混ざってお昼を

食べにいくこともありました。

しかし、「え、お前来るの?」という雰囲気を感じることは

ゼロではありませんでした。

女性総合職が少ない会社なので、気を使うからです。 

また、男性陣は上司が食べるスピードに合わせるためか、

食べるのがとても早いのも嫌でした。

「食べるのが遅いやつは出世しない」みたいな

言葉がありますが、私はそこまで男社会に迎合したくないなと

今でも思っています。甘いといわれるかも知れませんが。

 

私が働いていた街はビジネス街で、

「おじさんの街」でした。

ランチする場所はたくさんあるんですが、

「ラーメン・うどん・カレー・そば・定食」

このエンドレスリピートなんですよね・・・

男の人って、どうして食生活に気を使わないのだろうと

不思議でした。

また、コストも一回1000円近くかかりました。

コスパの良い女性が好きなヘルシーランチのお店」

なんて皆無でした。

 

わたしはそのうち、会社から少し離れた店で

一人でランチをするようになりました。

会議で責められた日など、そういえばよく泣きながら

ご飯を食べていたなぁ・・・

 

上司と同僚

先輩達は幸い優しい人が多かったです。

しかし、頻繁にメンバーが代わり、

新入社員である私にはその度に適応するのが大変でした。

上司は気軽に話しかけられるようなタイプではなく、

常に機嫌を伺っていなければいけないようなタイプでした。

 私の前にも女性の先輩がその部署には何人かいたらしいのですが、

みんなうつ病になって辞めていったそうです。

そのこともあって、その上司は私に腫れ物にさわるように

接しているなと感じていました。

今思えば、歴代の女性がみんなうつ病で辞めていくなんて、

その職場にはやはりなにかあったのだと思います。

 

 救いとなった先輩

そんな何もかもがストレスだった私ですが、

唯一の救いがありました。

女性の先輩のMさんです。

Mさんは私よりも3つほど年上。

綺麗で仕事ができて、明るく優しい人でした。

社内で、こんな人になりたいな、と思える

唯一の人であり、唯一の心を開ける人でした。

Mさんと出会えたことだけでもこの会社に入った

甲斐があったかもしれないと思い、

Mさんから多くのことを吸収しようと頑張っていました。

 

 

次回は、私が双極性障害を発症したときのことを書きますね。 

 

では、おやすみなさい(^^)